麻痺していると痛くないのかも

このところ、信仰について少し書いていた。私は、個人が信仰するのは勝手だけど、信仰を他人に押し付けるのはやめてほしいというスタンスでいる。特に、押し付けているくせに「善意で」「あなたのために」という言い回しが気に入らない。(前にも書いたな。*1
信仰している状態は、思考停止の麻痺状態である。人に薦めるにしたって、考えるのをやめてしまえば楽になるよというならわかる。だけど、考えるのが間違っているというのは、おかしいと思う。まさか脳みそまで麻痺していないだろうな?と疑ってしまう。麻痺していると、麻痺しているという自覚がなくなるのだろうか。
麻痺している状態において、たぶん痛みが薄れるんだろうと予測する。信仰して「楽になった」という発言は、それを指すんだろうと思う。だけど、他人の痛みにも麻痺してしまったら酷くないか。
あえて、麻痺しないことを選んだ人に、更なる不安を押し付けるようなやり口が気に入らないんだった。ただでさえ、麻痺していなければ不安を抱えていそうなものなのに、更に不安を上乗せする行為が嫌なんだと思う。押し付けがましい人にトラウマでもあるのかもしれない。


麻痺していると認識することは、ある意味麻痺しきっていないということなのだろうか。常に完全な麻痺状態じゃないとダメなんだろうか。私は、普通の状態なら、少しくらい痛い方がおもしろみがあると思うから、いつも麻痺していないと不安だというのは、ちょっとよくわからない。