生活の中の当たり前を理解しようとする行為

「まるで満ち足りた麻痺状態といった様子だ。わたしたちの質問が不愉快なのはそれだからだ。
(略)
ゲームの規則に気づいた瞬間から、そこは以前のようではなくなる、その瞬間から、慣れ親しんでいた知らぬがゆえの落ち着きを失うおそれがあるのだ。物事を理解する対価とはそういうものである」
これの出典は忘れましたが、たぶん社会学学術書です。(ノートの切れっぱしにメモってあったので正確には不明。)
なぜ人を殺してはいけないのかとかも、この部類の質問なんでしょう。そうなっているからとしか解答できないもの。既に決められたもの。こういう質問が無粋であることは確かだと思います。
理解の価値がどれほどのものか。学者やってる人は、理解することに大きな価値があると感じているんだと思うけど、そうでない価値観もある。麻痺状態こそ至高だとか、そういうの。
それに理解できればいいのかもしれないけど、理解できなかったら不安になるだけじゃないかとか、理解の仕方(解釈)がひとつだけとも限らないので、落ち着ける場所の喪失になりかねないと思ったりもします。
理解しようとするのと、幸福な麻痺状態を維持しようとするのとでは、どちらが優位な姿勢かという疑問には、たぶんこれからの時間(後の歴史となるもの)が解答してくれるはず。だけど、大きな物語が崩れた現在では、麻痺したままだと覚醒している人に足を掬われて転ばされるかもしれなくて、危ないのかもしれない。