立ち位置が違うということ

井の中の蛙、大海を知らず。されど空の高さを知る。
という諺だかなんだかよくわからない文章があります。「井の中の蛙大海を知らず」は諺ですが、「されど〜」は「されど空の青さを知る」とか諸説ある上、後付けらしいという話です。*1
「されど〜」以降があれば、この諺けっこう好きで。なんか立ち位置の違いだよねって風に解釈している。その場所から見えることと、この場所から見えないこと。どちらが優れているとか、どちらが善いかということではなくて、違うということ。どちらが好きかという判断はできるけれども。
例えば、「普通」はどうだとか、「常識的に」こうだとか、そういう言葉を使っている人を見ると、この文章を思い出す。誰かの「普通」は別の誰かの「普通」ではない可能性について考えが及ばないまでに無知であること。その無意識の傲慢さ。私はもうそれを失ってしまったので、「普通」にそういう文章が書ける人を少し愚かだと思ったり少し羨ましく思ったりする。(そんで、私もたぶん誰かから見たらすごい傲慢で押し付けがましいことを書いているのかもしれないと思ってみる。でも、至らないところなんて指摘されないとわからないもんだ。)
無知による傲慢さは、私は昔持っていたもので今は失ってしまったものだから、なんとなく分かるような気もするけど、今その見方はできないし、やっぱり失ってしまったんだなと少し悲しく思う。まったく知らないことや思い至らないこともきっとたくさんあるんだろう。それはいつか知るのかもしれないし、知らないで終わるのかもしれないし、どっちでもいいんだけど。違うから個人なんだなーと思ったりするわけです。


似たようなことですが、成長も老化も言葉のイメージは違えど、ただ変化でしかないんです。どちらが優れているとかいう比較はどうしようもないし、現状で十分に生きられるかが個人的満足と関係するのではないかと思っています。


蛙が実際に海を泳いだら、海水との浸透圧の関係で干からびるらしいですけどね。知らない方が幸せなこともきっとあります。

*1:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1394733([教えて!goo] 「井の中の蛙大海を知らず……」続きについて教えて下さい)、http://www.geocities.jp/tomomi965/kotowaza02/02-5-6.html(50井の中の蛙)、さらに詳しくは「井の中の蛙大海を知らず+されど」で検索でもしてみてください