コミュニケーションについて考えてみた。

コミュニケーション。日本語にすると伝達でいいのか。交流とかそんなのについて。
コミュニケーション能力という言葉を非もて議論でよく目にするようになった。他者がいる場で生きている人にとっては、必要なものだと思う。(人と人の間で生きているから人間って言うんだよってどっかの宗教家が言ってた。)


私は、話すことは、しなくてもいいことだと思っていた。私が考えるようなことは、もう既にどこかの誰かが考えていることで、それを私が口に出す必要なんてないし(幼い頃は多様性という概念がよくわかっていなかった。自分と他者は似たようなことを考えて、感じているものだと、同じものを見れば、同じ風に感じると思っていた。差異があるとしたらそれは小さいもので、まるで違う感じ方なんてないものと思っていた。)、私一人が意見することで、全体の流れが変わることもないと思っていた。言葉を発することで、その場の会話の流れが滞ることが怖かったのかもしれないけど。
(っていうか、そもそも何も考えていなかったのかもしれない。ただ、感じることだけで、考えることをしてこなかったのかもしれない。感じたことを言語化しないでいた。小さい頃の、夢と現実の境が曖昧だったあの感覚が、ずっと続いている気がする。)
だからか、今でも書くことや伝えることは苦手だ。どうにも直接・簡潔な言葉遣いになってしまうし、言いたいことが上手に書けていないと思うことがある。読書感想文も苦手だった。感じたことを書くことが出来なかったからだ。(「おもしろかった。」って書いた後が続かなかった。)


その代わりかどうか、読むこと、聞くことはわりと出来ると思う。高校のときの国語の先生に、国語のセンスがあるって言われた。たぶん、読み取る能力があるってことだと思っている。
いろんな意見を見てきたけれど、耳を塞いで、俺の話聞けよって言ってる人とか、聴いて理解しているけど、それを伝えようとしない人とか上手に伝えられない人とか、けっこういるんだなって思った。




(ここから本題)
コミュニケーションって、人と関わるってことなんだな、と。そんな基本的なことを今更ながら。
どこかで誰かが何か言っていても、ある人(Aとする)がいるその場所には、届かないことが多いんだ。でも、ある人2(Bとする)がAと同じ場所にいるなら、Aに直接言うことが出来るし、言葉で伝わらなくても、別の手段で伝えることも可能かもしれない。Aは、どこかの誰か(Wとする)が言っていたことは聞こえなくても、Bの言うことなら聞くことが出来る。Bが言ったことと、Wが言ったことが同じ*1だとしても、AはWが言ったことを知らないでずっと生きることになったかもしれないし、もし知ったとしても、人生のどのタイミングでWが言ったことを知ることになるかわからない。(まぁ、WとBが同じことを言うことはほとんどないと思うが。人間は本当に多様性のある生き物だから。)とりあえず、その場でそのときBが言ったことが、A(のその後の人生)に大なり小なり関わることは間違いない。Aの意識や感覚がそのときだけ少し変わったという程度でも、関わったということだと思う。
それに、Bの言ったことにAが反応して、さらに何らかの言葉をBに返したとすると、Bの意識も変わるだろうし、Bが口にした言葉がB自身に、その言葉について考え直させる効果だってあるかもしれない。人は少しずつ変わるし、それは時間が流れている限り必至なことだけど、コミュニケーションによって、その人一人だけでは変わることが出来ない方向に持っていくことが出来て、それがいいことか悪いことかわからないけど、人と関係を結んでいる限りそういうことはいつでも有り得るってことだけは事実。
言われたことに「わかった」と言葉を返すだけでも、それはコミュニケーションだよね。わかってもらえたという感覚が自信になることもあると思うんだ。
多くの人の意識や感覚が少しずつ変わることがあったとしたら、それは社会全体が少し変わったということになると思うし、そういった働きかけを、一人の人が出来ることもあると思う。
だから、とりあえず言葉にしてみる。伝えようとしてみる。練習すれば、だいたいのことは上手になる。できれば、伝わればいいし、その人にとっていい効果を与えられればいいと思うけど、それは私がコントロールできることではない。


人と関わることを怖いと思うかもしれない。人と関わらずに生きていくことが出来るならいいけど、ほとんどの人はそういう生き方は出来ない(もしくは、選択できない)現代社会人なので、それなら上手に関われるように試行錯誤してみるのも必要ではないかな、とか思う。関わって痛い目見ても、痛い目に遭わせてしまっても、お互い様。社会はそういう風に出来ているものだと思うから。
(ここまで本題)


なんて、誰かの言葉で簡単に一喜一憂できる私が、今頃気付いたことでした。既に気付いていたのかもしれないけど、言語化できたのは今日がはじめて。言葉にすることで、なんとなく触れるものになったような気がする。リアリティというか。意識の表面にあるものという認識を持てた。
今、読み直したら、私はコミュニケーションと言うものを複雑に捉えすぎているかなとか思った。もっとライトな感覚なのか。「明日ショッピング行かない?」「行く行く〜」みたいな?でも、その中にも意識や感覚に働きかけるものがないとも言い切れない。「あの先生ほんとわけわかんねーよ」「なー」という会話にだって、共感するというコミュニケーションが存在するわけで、共感されることにより安心するかもしれない。その安心がその人の人生をほんの少しでも変えることがあるかもしれないよってたぶんそういうこと。


(参考)バンプオブチキン「ベル」
明日は明日の風が吹く - 自分のエントリーを解説してもらう喜び
ttp://d.hatena.ne.jp/yas-toro/20051124/p5

*1:偶然でも、Bが故意にWと同じにしたとしても