他者と神を区別しない

動物化するポストモダン』の最初の方に、ポストモダン的な社会の中では、他者と神を区別しないとかできないとかなんとか書いてあって、ああなるほどと腑に落ちた。(最近読み直して気付いたのです。)
*1もR/AD W/IM/PS*2の人も、間違いなくポストモダンの中で育ったわけだ。


私には、「全知全能のネ申」とやらがよく理解できないのでした。地球とか植物とか動物とか人間とかができたのは偶然の産物だと思うし、運命というようなものがあると思わない。としたら、ネ申は最初にビッグバンを起こした存在ってことになる、私が納得できるところだと。
日本的な八百万のネ申は、なんとなくわかる。物に帯びる神性というか、神性があるように思ってしまう人間というか、とにかくそんなことだろう。ネ申が複数存在して、ネ申の世界も人間の世界とかと同じで、喧嘩したり和解したり子供作ったりっていう神話の世界みたいな感じの、人格的なネ申観なら少しはわかるつもりだ。たまに気まぐれに人間の願いを聞いてやったりするかもしれない、ような人格的なカミサマ。機嫌が悪いときは災害を起こしたりして、捧げモノで機嫌を取らなくちゃいけないようなカミサマ。
「全知全能のネ申」は人格的ではないのだ。人格がなくて、ただ存在するという。なんか感覚的によくわからない。
ビッグバンを起こした存在があったとしよう。でも、その存在はなんのためにそんなことをしたのか。実験的な、もしくは娯楽的な観察が目的なのではないか。広がる宇宙を、細胞分裂を眺めるのと同じように見ているのかもしれない。その存在があるところには他の存在もあって、きっと社会のようなものもあって、この宇宙を始めたのはその中のひとつかいくつかの存在なのかもしれなくて、っていう風に、この世界のひとつ上に世界があるかもしれなくて、その中の人格的な存在に繋げてしまうので、私には「全知全能のネ申」がわかっていないようだった。わからないものをわからないまま信じる理由が、私にはない。今のところその必要もない。
人格的なカミサマが、他者とはどう違うのかも、私にはよくわからない。