やおいが必要だった時期がありました

なんとなく、こうかなーと思ったことを書いていきます。
以前の私には世界はホモソーシャル*1なものに見えていて、内面化されたミソジニー(女性である自己嫌悪)からの逃避とホモフォビアに対する嘲笑として、やおいを楽しんでいたようです。嘲笑したいくらいホモソーシャルというものに抑圧を感じていたのかも。
なんかそこらへんのやおい評論本に書いてありそうなくらいわかりやすい話ですが、私の場合も大体当てはまると思った。
今は、慣れたのかわからないけど、それほどホモソーシャルだとかは意識していないし、自己嫌悪に繋がる自意識も以前よりは過剰じゃない(と思う)ので、どうしてもそういう本を読まないと息苦しいみたいなことはないです。今も読んでいて楽な部分はあるし、好みの傾向としてやおいが好きというか、やおい作家の方が一般作家より好みに合う場合が多いというだけで、なくしても平気。おやつ感覚。