「状況はどうだい?

jjnagi2005-10-07

僕は僕に尋ねる」(ってバンプの歌詞ですけども)。ぼちぼちですとしか答えようがない現状。一進一退というか、三歩進んで二歩下がるというか、たまに三歩進んで四歩くらい下がってんじゃねーのって感じです。堂々巡りもいい加減終わりにしたいんですが、これがなかなか。


主観・客観の話を先日書きましたが、あれは学校で授業を聞いてるときに思い浮かんだものです。社会学の授業でした。
社会調査には、量的調査と質的調査という区分があります。量的調査は、国勢調査やアンケートのような、その集団の中でどれだけの人がどうだとか、数量や割合を調べることが出来ます。質的調査は、参与観察やドキュメント分析に代表される統計を取らない調査法です。参与観察は、ある集団に調査者が参加して、その集団の性質や特性を調べるものです。暴走族などの集団を調査したものがあるそうです。ドキュメント分析は、日記や手記や手紙など、その集団に所属していた人が書いたものを資料として、文章から読み取れる暗黙の了解というか、集団の常識というか、背景としてそこにあるものを読み取ることを目的とします。代表的な研究に、ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民というものがあるそうです。
十年位前までは量的調査による研究がほとんどで、質的調査は公平性や信憑性に欠けるという評価が社会学者の共通認識としてあったらしいんですが、近年はその評価が見直されてきたそうです。質的調査をする若い研究者が増えてきているとか。なぜなのかはわからないと先生は言っていましたが。私は個人の多様化が進んで、アンケートなどでは捉えきれない側面が増えただけじゃないかとか思いましたけども。
で、量的が客観で質的が主観という見方も出来る訳です。世代的に主観的なものの見方に重点が置かれるようになってきたんでしょうかね。つか、科学主義(数字信仰)が見直されるようになってきたんですかね。数量に表してみても、対象である人間や集団自体が曖昧なものだということは変わらないですしね。


世界は主観でしか見られないと思います。実際にあった出来事を自分が解釈して見ている訳ですから。極端にいえば、誇大妄想でも自分がそれが事実だと思い込んでいられれば、いいんじゃないですか。主に思春期に見られる、自分を客観的に見ているもう一人の自分とやらも、客観的に見ている気になっている(主観的な見方をしている)もう一人の自分なんじゃないかなという気がします。


今日は無駄なことを書きすぎた気がしないでもない。まぁいいゃ。