自己肯定にボランティアとかどうよ

「誰にとっても善いことをやった自分」は、無条件で肯定できるんじゃないかなとか思ったんです。そういう肯定の仕方もありじゃないかなと。
ボランティアのいいところは、金を貰わずに働くから、その行為が善だと思いやすいこと。(よくわからんが、無償で働くことは善いことだと思われやすい。)無償で善いことをしている自分は善い、と思えることだと。
あと、手近なところから始められるのもいいところ。近所のごみ拾いとかでもいいんだし。誰かに親切にすることも、ボランティアといえば、そうかもしれない。


ボランティアをする際に気をつけたほうがいいところも書いてみる。
その行為が、本当に誰かの何かの役に立つことかは考えた方がいいと思う。本当に助力が必要なのか調べるのもいいかも。善意でも余計なお世話ということはある。
ごみ拾いでも、都会でやった場合はホームレスの人達に迷惑かもしれない。(そういう人達は拾った空き缶とかを売って金を稼いでいたりするらしい。)とか考えてみたり。
(こうやって考えなきゃいけないことが、面倒でやらない人もいるんだろうな。やってみて気が付くこともあるだろうから、余計なお世話である可能性を頭の隅に置いておいて、とりあえずやってみてもいいかもしれない。)
あと、自分はそれを出来るのかということも考えた方がいいときもあるかも。途中で放り投げることが誰かの迷惑になることもある。


ボランティアは無償だとか言われるけども、確かに金銭は受け取らないが、善いことをしたと思える自己肯定や自己満足(陶酔感?)、誰かからの感謝とかが報酬と言えるのかもしれない。


こうやって考えて行動することが打算的で「善」ではないと思われるだろうか。
「やらない善より、やる偽善」という言葉をどこかで目にしたけれど、「善」というのは基本的に行為について言われることじゃね? 打算的だろうと、その行為自体が善いことならそれでいいと思う。


こうやって作為的に行動する自分は「本当の自分」じゃないと思われるだろうか。
「本当の自分」は「自分はこういう人間である」という思い込みだから、その思い込みをしなけりゃいいんじゃね?ってそんな簡単なことでもないか。でも、どう考えていようと、他人から見たらその人の行為しか見えないわけですし、他人から見た自分も自分の一部らしいし、それが「本当じゃない」というのはどうなんだろうなと思うのです。